雨に思うこと
今日で9月が終わる。
秋の長雨という言葉があるが、この9月は本当に良く雨が降った。

私は、雨が嫌いではない。
どちらかと言えば、好きな方かもしれない。
雨の日は、庭の木々がいつもと違って見える。
葉っぱについた水滴がキラキラして、雨に濡れた土の匂いがして…
雨が降ると、植物たちがホッとしているようにも見える。
だから、私の中では「雨」は、どちらかというと「恵み」のイメージがある。
ところが、今年の雨を見ていると、なんだかそのイメージが揺らいでしまう。
今年は雨が多い。
……というより、雨の降り方が変な気がする。
秋の長雨といえば、昔から「しとしと」と降り続く雨を思い浮かべる。
けれど、今年あちこちで起きているのは、そんな雨ではない。
短い時間に猛烈に降る雨。
川があふれ、道路が冠水し、土砂災害が起きる。
日本だけの話でもない。
世界のあちこちから、大雨や洪水のニュースが聞こえてくる。
千葉県では、今年何度も大雨による被害が起きた。
同じ場所に、何度も雨が集中する。
ニュースを見ていると、まるでそこだけ狙い撃ちされているように感じてしまうことさえある。
もちろん、雨に意思があるわけではない。
気象には、海水温や大気の流れ、湿った空気、地形など、たくさんの条件が複雑に絡み合っている。
実際、気象庁の説明を読んでみても、今年の大雨にはいくつもの条件がかさなっていたことが分かる。
「今年は雨がおかしい」と感じた私の感覚はあながち間違ってはいなかった。
でも、それを「地球温暖化だから」と一言で片付けてしまうのも、なんだか違う気がする。
人間には「雨を降らせる技術」もある。
人工降雨。
雲の中に物質を入れて、降水を促す技術だ。
実際に世界のいくつもの地域で利用されている。
もちろん、今回の大雨が人間によって起こされたという話ではない。そんな証拠はない。
むしろ、現在の科学でできる気象改変には限界があり、台風や洪水を人間が自由に操れるような技術があるわけではないと思う。
それでも、「雨を降らせることができる」という事実そのものには、少し考えさせられるものがある。
水が足らないところでは、雨は欲しい。
雨が降らない土地にとっては、恵みになる。
でも、その水が、別の場所では人の暮らしを壊したり、命を奪うことさえある。

人間は昔から、自然に手を加えて暮らしてきた。
雨が降れば困るから、川を堤防で囲う。
水が来ないように土地を高くする。
山を削って道をつくる。
海を埋め立てて土地をつくる。
人間にとって暮らしやすいように、自然を変えていく…
人間だって自然の中で生きているのだから、自然に手を加えながら暮らすのは、ある意味では当たり前のことだ。
でも、いつの頃からか、人間は、「自然は思い通りにできる」と、思うようになってしまったのではないだろうか。
自然はそんなに単純なものではない。
こちらが川をまっすぐにすれば、別のところに水が流れる。
山を削れば、そこにあった土や水の流れも変わる。
ひとつを変えれば、別のところに影響が出る。
そう考えると、今起きている災害の中には、自然そのものの変化だけではなく、長い時間をかけて人間が自然に手を加えてきたことの「つけ」のようなものもあるのではないか、と思えてくる。
もちろん、すべての災害が人間のせいで起きているわけではない。
自然には、人間の力ではどうすることもできない大きな動きがある。
それでも…
「自然が変わった」のか。
「人間が自然を変えた」のか。
人間は自然を変えながら、その変えた自然の中で生きている。
そして、変えたことの影響を、今度は自分たちが受けている。
そう考えると、今年の雨を見ながら感じていた、なんとも言えない違和感の正体が、少しだけ見えてくる気がした。


