林業を哲学の視点で考えてみる②

前回、年配の林業従事者の佇まいから、林業を哲学の視点で眺めてみました。

今回はその続編として、若い林業従事者について考えてみたいと思います。

近年、林業に興味を持ち、この世界に飛び込んでくる若者は確かに増えてきました。
一方で、残念ながら、数年で現場を離れていく人も少なくありません。

なぜなのでしょうか。

労働環境の厳しさ、収入の問題、産業構造の歪み──そうした要因があることは間違いないでしょう。けれどそれだけでは説明しきれない何かがあるように、私は感じています。

 

若い林業従事者の多くは、とても真面目です。

指示された作業をきちんとこなし、危険な現場でもルールを守り、与えられた役割を誠実に果たそうとしてくれます。その姿勢は、とても立派で頼もしく感じます。

でも、ふと小さな違和感を覚えることがあるのです。

仕事はしている。
でも、仕事の“外側”にまで関心が広がっていかない。

作業そのものはこなしていても、

  • なぜこの作業をするのか
  • 森はいま、どんな状態なのか
  • 今日の現場で、何が起きているのか

そうした問いや気づきが、あまり言葉になって現れてこない。

それは怠慢でも、能力不足でもなく、
仕事を「仕事として」きちんと完結させているがゆえの姿にも見えます。

若い林業従事者を見ていて、時々思うのです。

それは、
自然に憧れて林業に来た人と、
自然の中で育ってきた人とでは、森との距離感が少し違うのではないか?ということです。

もちろん、どちらが良い・悪いという話ではありません。

ただ、幼少期にどれだけ自然と触れ合ってきたか──
その経験の量や質は、大人になってからの「自然の受け止め方」に、思っている以上に影響を与えているように感じます。

自然の中で過ごすことが「特別な体験」だった人にとって、森は刺激的で、美しく、ときに過酷な「非日常」です。

一方で、
自然が生活の背景として当たり前に存在していた人にとって、森はもっと静かで、良くも悪くも「日常」の延長線上にあります。

哲学的に言えば、森は人間の期待に応えてくれる存在ではありません。

努力すれば報われるとは限らない。
情熱があっても、思い通りにはならない。

天候、病害、獣害、地形──
森は常に、人の思惑とは別の論理で動いています。

幼い頃から自然と付き合ってきた人は、
この「無関心さ」を、どこかで知っています。

自然は優しいだけではない。
でも敵でもない。

ただ、そういうものだ、という感覚。

その感覚があるかどうかは、
林業という仕事を続けられるかどうかに影響しているように思うのです。

林業の現場で必要なのは、
自然を好きでいること以上に、
自然に慣れていることなのかもしれません。

慣れとは、軽視ではありません。

  • 期待しすぎないこと
  • 過剰に意味づけしないこと
  • 思い通りにならなくても、過剰に落胆しないこと

これはある種の哲学的態度です。

世界をどう変えるかではなく、
世界とどう付き合うか。

若い林業従事者の中には、
この距離感をつかむ前に、疲れ切ってしまう人がいるのではないでしょうか。
それは能力や意欲の問題ではなく、
世界との関係の結び方の問題なのかもしれません。

だからといって、
「自然に慣れていない人は林業に向いていない」
と言いたいわけではありません。

むしろ逆です。

林業は、
自然との距離を、ゆっくりと学び直す場でもあります。

ただ、その学びには時間がかかります。

年配の林業従事者が纏っている、
あの飄々とした雰囲気は、
才能でも性格でもなく、
長い時間をかけて身についた「関係性のかたち」なのだと思います。

 

私たちは、
どれくらい自然と距離を取り、
どれくらい自然に期待しながら、
働くことができているのでしょうか。

林業という仕事は、
若者に何を教え、
そして私たちに何を問い返しているのでしょうか。

もしかすると次に考えるべきなのは、
「仕事をきちんとこなす」ことと、
「世界に関心を持って関わる」ことのあいだにある、
微妙で、しかし決定的な違いなのかもしれません。

自然と共に働くとは、
一体どういうことなのか──。

その問いは、林業に限らず、
いまを生きる若い世代全体に向けられているようにも思えるのです。

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