林業を哲学の視点で考えてみる③

これまで2回にわたって、年配の林業従事者の佇まいから林業の時間感覚を考え、次に若い林業従事者と自然との距離について考えてきました。
3回目となる今回は、そこからもう一歩進んで、「関心を持つとはどういうことか」そして「仕事と世界はどのようにつながっているのか」について考えてみたいと思います。

よく、「仕事とプライベートは分けたほうがいい」と言われます。
確かに、仕事にすべてを飲み込まれてしまわないために、仕事とプライベートに境界線を設けることはとても大切な考え方だと思います。

ただ、林業について考えると、その分け方が、どこかうまく当てはまらないような感覚が残るのです。

そもそも、林業とは「職業」だったのでしょうか。

森があり、山があり、人はそこから木を得て、燃料にし、道具を作り、家を建て、暮らしてきました。木を育て、山を手入れすることは、収入を得るため以前に、生きていくために欠かせない営みでした。
林業は、本来「生活の中にあった仕事」だったのだと思います。

現代の林業には会社があり、勤務時間があり、役割分担があります。そこで働く人たちは、ある意味でサラリーマンです。それは林業を続けていくために必要な形でもあり、否定されるものではありません。

それでもなお、林業の現場には、仕事という枠には収まりきらない何かが残っているように感じます。

天気を気にし、季節を感じ、山の変化を思うこと。それは、勤務時間が終わったからといって、完全に切り替えられるものではありません。林業は、仕事であると同時に、世界との関わり方そのものなのではないか… そんな気がするのです。

 

前回触れた、若い林業従事者への違和感も、ここにつながっているように思います。多くの若者は、とても真面目に仕事をこなします。言われたことはきちんとやるし、責任感もあります。

けれど、その仕事が「仕事の域」を出ないことがある。

作業は終わる。でも、その作業がどんな森につながっているのか、今日の現場で何が起きているのか、そうしたことへの関心が、あまり言葉になって現れてこない。その様子を見ていると、能力や意欲の問題ではない、別の何かを感じてしまうのです。

関心というのは、指示されて持つものではありません。マニュアルを読めば生まれるものでもありません。

関心は、自分のしている仕事が、仕事の外側にある世界とどこかでつながっていると感じられたとき、自然と立ち上がってくるものです。

 

林業を長く続けている人たちは、仕事を通して世界と直接つながっています。森の変化は、そのまま自分の生活に返ってくる。だから、関心を持たずにはいられない。

本来、仕事とは、世界と自分をつなぐ「窓」のようなものだったのではないでしょうか。けれど仕事が細分化され、役割だけが切り取られていく中で、その窓は少しずつ小さくなってきました。窓が小さくなれば、世界への関心も、自然と薄れていきます。

林業が持っている哲学的な強さは、仕事と生活が完全には切り離されていない点にあるように思います。それは、長時間働くことでも、仕事を美化することでもありません。

自分のしている仕事が、どんな世界とつながっているのかを、感覚として知っているということ。

関心を持って働くとは、努力して何かを付け加えることではなく、仕事と世界の距離が近い場所に身を置くことなのかもしれません。

私たちは、自分の仕事を通して、どれくらい世界を感じられているでしょうか。仕事を切り離すことで守ってきたものと引き換えに、私たちは何を失ってきたのでしょうか。

林業という営みを哲学の視点で眺めてきて、強く感じるのは、林業が今もなお「世界と直接つながる仕事」であり続けているということです。
効率や役割に分けきれない部分を抱えたまま、自然の時間と人の暮らしを結びつけている。その在り方そのものが、私たちに多くの示唆を与えてくれます。

仕事とは、単に収入を得るための手段ではなく、世界との距離を測るものなのかもしれません。
林業を通して見えてきたのは、関心を持って働くということが、特別な意識や努力の問題ではなく、仕事と生活、そして世界がゆるやかにつながっている場所に身を置くことなのだ、ということでした。

哲学の視点を通して考えてきた林業の姿は、決して林業だけの話ではありません。
私たち一人ひとりが、自分の仕事をどのように引き受け、どのような世界と結び直していくのか。そのヒントが、静かにそこに重なっているように思えます。

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